こんにちは!富士五湖現地スタッフの富士まりもんです。
今年も残すところあと2日。
大掃除もお正月の準備もまったくやっていません・・・。
しかしどんな状況だって、とりあえず年は越せるもの(笑)。
さて師走の忙しい最中、前々から予定していたひなびた温泉の旅へ行ってきました。
周囲が薄暗い時間に富士山麓を出発しました。
23日に降った雪が道路脇にはまだたくさん残っています。
夜明けの富士山です。
この後、山頂が紅色に染まる「紅富士」が見られました。
さて、向かったのは那須湯本という温泉地でしたが、あまり馴染みないので前知識もなく伺いましたところ、いやーびっくりしました。私の子供時代にタイムスリップしたかと思うような温泉街でした。
正確に言えば、私の子供時代の温泉街が寂れてしまった風景でした(苦笑)。
街並みは宿泊施設がほとんどで、たまにお店はありますが・・・
ご覧のようにシャッター街になっているところがほとんど。
このショッピングセンターが現役の頃は、温泉街もさぞ賑やかだったんでしょうね。
石蔵を改装したカフェがありましたが、閉店していたので入れませんでした。
今回は愛犬と泊まれる小さな民宿に泊まったのですが、宿も相当経年劣化していました。・・・が、しかし、温泉は素晴らしかったです!
建物は時と共に劣化していきますが、何百年もコンコンと湧き続ける源泉は、今も昔も変わりなく極上の湯を提供してくれます。
上の写真は民宿のお風呂です。名湯「鹿の湯」源泉からの引湯で、熱さもちょうど良く白濁の硫黄泉を貸切で楽しめます。石造りの浴槽が白くなっているのは、温泉成分によるものです。
翌朝は宿で半額の入浴券を購入し、「鹿の湯」に向かいました。
上の写真は名湯「鹿の湯」入り口。
前日は近くの共同浴場「滝の湯」にも入りました。こちらは宿で鍵を借りて無料で入れます。滝の湯も風情があって昔ながらの湯治場の雰囲気を色濃く残していました。
鹿の湯外観。
鹿の湯とは・・・
那須温泉元湯・鹿の湯は、7世紀前半、約1300年前の開湯といわれ、山狩の際に射損じて逃げる鹿を追って山奥に入ると、鹿が傷ついた体を温泉で癒していたそうです。
鹿によって発見されたので、「鹿の湯」と名付けられたと言われています。
鶴によって発見されたから「鶴の湯」とか、この手の開湯歴史譚は多いですね。
しかし鹿の湯は歴史的史実からも、古くは天平10年(738年)の正倉院文書中にこの温泉の記録が残されているのです!
また、江戸時代には、江戸在府の大名がしばしば那須温泉に湯治に出かけていたそうです。 正保2年(1645年)に盛岡城主・阿部対馬守から将軍家に出された湯治願が残されてるそうで、昔の人にも人気の湯治場だったようですね。
建物は明治時代、玄関は大正時代に建造され、そのままの姿を受け継いでいます。 浴場の木造建築が特に素晴らしく、それぞれ温度の異なる浴槽が並ぶ様は、東北地方の温泉によく見られる光景ですが、女湯はその他に高低差のある浴槽があり、非常に魅力的な浴場建築です。一緒に旅した90歳近い義母が「懐かしい」と感慨深げでした。
渡り廊下を通って男湯と女湯があります。
下を流れる川の河床も白くなっていますが、こちらもやはり温泉成分のせいですね。
浴室には硫化水素ガスに注意を促す警告がありました。
上の写真は湯の花を採取する場所のようです。幾層にも並んだ木桶を通して析出される湯の花を乾燥させて作られるそうで、鹿の湯でも販売されているようです。
那須湯本温泉の源泉。この奥に殺生石があります。
殺生石へ
殺生石と名付けられた場所へ向かいました。
殺伐とした風景は、賽の河原を彷彿とさせます。
これまた賽の河原におびただしい数の石地蔵・・・、ここは恐山ですかーー?
千体地蔵と書いてありました。
帰命頂礼世の中の 定め難きは無常なり。
親に先立つ有様に 諸事のあわれをとどめたり。一つや二つや三つや四つ 十よりうちの幼子(おさなご)が
母の乳房を放れては 賽の河原に集まりて
昼の三時の間には 大石運びて塚につく。
夜の三時の間には 小石を拾いて塔を積む。一重(ひとえ)積んでは父の為
二重(ふたえ)積んでは母の為
三重(みえ)積んでは西を向き
しきみほどなる手を合わせ 郷里の兄弟わがためと
あらいたわしや幼子は 泣く泣く石を運ぶなり。
(賽の河原和讃より)
お地蔵様の頭には手編みの赤い帽子が被されていました。よく見ればその下にも古い帽子と思しきものが・・・。合わせた両手が頭の何倍もありそうな大きな合掌の姿に哀しいものを感じました。
殺生石と看板のある場所です。
おそらくここは古来より硫黄の吹き出る硫化水素ガスが漂う土地で、そのため生き物も植物も生きていられない場所だったのでしょう。
松尾芭蕉が元禄2年(1689年)この地を訪れ、「奥の細道」に殺生石のことを記しているそうです。
「殺生石は温泉の出づゆ山陰にあり。石の毒気未だ滅びず、蜂、蝶のたぐひ真砂の砂の色の見えぬほど重なり死す。」
そして芭蕉は下記の一句を残しています。
「石の香や 夏草赤く 露あつし」。
殺生石から鹿の湯方面を見ると、まるで山間から海が広がっているように見えました。
硫黄泉は有益な温泉ですが、硫化水素型は有毒ガスを発生するため命の危険もあるのです。殺生石の正体は硫化水素と思われ、それ故にこの殺伐とした風景になったのでしょう。しかし現在の温泉施設は、安全基準に沿った管理の下運営されています。
松尾芭蕉の時代、いやもっと遥か昔から、医療環境もまったくない中で、人々はこの温泉で傷を癒し疲れを癒し、弱った身体を回復させたのでしょうね。
人々にとってこの温泉はまさに奇跡の湯だったことでしょう。
忙殺される年末、無理を押しての温泉旅でしたが、それでも行って良かったと心から思うのでした。
以上、富士まりもんでした。
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